プロフィール
こんにちは、飯田@ザ・マーコムプランです。

1965年6月生まれ、
ふたご座
へび年、
AB型
座右の銘「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
生まれは、神奈川県川崎市、
1歳を迎える前に父の転勤で福島県福島市に転居、
以降、東京の大学に入学し上京する18歳まで福島市で育ちました。
福島はたくさんの果物がとれます。
桃がいちばん有名ですが、りんご、なし、スイカ、などなど
たくさんの果物を食べて育ちました。
でも小学校に入る前に
小児喘息になり、
身体の強い子供ではありませんでした。
あの頃は小児喘息の子供は
あまりいなかったというか
その病気が気づかれなかったというか
専門治療してくれる医者も少なく、
2週間に1回バスを使って
街の病院にいっていました。
私の住んでいたところは
福島市でも田舎で、
片道歩き20分、バス1時間の道のりを
通いました。
一日仕事になりました。
遠い道のりでしたが
母は私を2週間に1回
病院に連れて行ってくれました。
夜、ぜーぜーして眠れないと
そばにいてくれました。
今、私は2人の子供の
父親ですが、
面倒見るのって大変ですね。
すぐに熱を出すし、
自分ひとりで何もできないくせに
何をするにもいやいやだし
でも、大変だけど
可愛いのが
自分の子供です。
寝顔を見てると自然に笑顔になります。
子供を育てる事で、
自分も成長しますね。
親になって初めてわかる、
親のありがたさって
本当ですね。
心残りは、
母にそれを伝えられなかった事、
母に子供を見せる事が
できなかった事。
突然逝ってしまったから
考える時間もなかった。
お墓に行って話しかけるだけです。
「育ててくれてありがとう」
母がなくなってから手紙がみつかりました。
母は遺書を時間もなくなくなったので、
驚きました。
自分がいなくなった時にと
思って前に書いておいたんでしょう。
短い手紙があったのです。
そこにはこう書いてありました。
「あなたの親でよかった。」
今でも、胸が詰まります。
そんな母のおかげで
今でも喘息は持っていますが、
自分でコントロールできるように
なりました。
母と父の実家が横浜と平塚だったので、
子供の頃は、年に1度、母に連れられて、
横浜に遊びに来ました。
楽しい思い出が詰まっています。
そんな気持ちが潜在的にあったからか、
今、私は横浜市にすんでいます。
福島が好きです。
父と母と姉とアンガスという犬と暮らした。
家族との思い出が詰まっているから。
横浜が好きです。
妻と2人の子供との思い出が詰まっているから。
これからもっと好きになります。
これからもっと思い出が作れるから。
横浜と福島は私の故郷です。
妻に会ったのは私が38歳の時です。
なぜそうなってしまったのか、
自分でも良くわからないのですが、
仕事に疲れて精神的に病んでいました。
心療内科に通い、
安定剤をのんでなんとか仕事をしてました。
その上に、母を失い、
自分を必要としてくれる人はいない。
もう、活きていく意味がない。
そんな気持ちでいました。
妻に初めて会ったのはそんな時です。
妻の初めの私の印象は、
「やる気のない人」
だったと後で聞きました。
そうだよなあ。
不思議ですね。
どうして、あの時妻に会えたのか、
時々思います。
18からずっと1人で
がむしゃらに仕事をして
生きて来て、
行き詰って
寂しくなって
行き場を失いかけて、
母も失い、
駄目かと思ったときに
18から38まで
心を本当に許せる人に
ずっと逢えなかったのに
このタイミングで逢えるなんて・・・
神様がいるんだなあと思いました。
母が自分がいなくなっても大丈夫なように
つれてきてくれたんだと思いました。
暗かった気持ちも
今では、楽しく心から笑えるようになりました。
あれからまだ、たった5年あまりしか
経っていないのに、
今は楽しい家族4人で暮らしています。
妻は小さい2人の子供を
一生懸命いい子にしようと
育ててくれています。
昔の母が私にしてくれたように。
妻に出会えて本当に
よかったと思います。
私の役目は家族を守る事
幸せにする事です。
そうすれば、
自分も幸せになれます。
ちょっと話を変えますね。
私の趣味や仕事の事。
趣味はアウトドアと水彩画。
でも今は子育てに忙しくなかなか出来ないというのが実際です。
時間を見つけてはPCに向かって仕事をしています。
おかげで周りで子供が騒いでいる中でも
集中する力は身つきました。
座右の銘は、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」
です。
何事も成功する為には、
一歩踏み出さないと何も始まらないと思っています。
大学時代はコピーライティングに興味をもち、
宣伝会議主催のコピーライター養成講座に通いました。
当時は仲畑さんや、糸井さんの全盛時代で、
私も人の記憶に残る作品をつくろうと
コピーやコンテなどをたくさん書く事に没頭していました。
1日100本コピーを練習で書いたりしていましたね。
その頃、好きだったコピーはJR東海の
「距離に負けるな好奇心」です。
確か東京コピーライタークラブの新人賞を取ったと思います。
何事にも好奇心を持つ事、
そして一生懸命に取組む事、
信じた事は継続すること
が大切だと思っています。
一生に1つはみんなの記憶にのこる
何かを残したいと思って
大学卒業と同時に広告会社に就職しました。
記憶に残るコピー、
あっと驚くコマーシャル、
凄いなあと感心するイベント
へえーと思ってしまうポスター
そんな記憶に残る何かを
残したいと思いました。
そのチャレンジは
今も続いています。
大学を終え広告会社に入りました。
私が社会人としてはじめて入った広告会社の
CM制作はそこそこ定評があり
CMでカンヌでも賞を数度とっています。
バイクが壁にくっついたり、
風船になげたダーツがそのまま刺さったりという実証広告です。
覚えている方もいるのではないでしょうか?
アロンアルファです。
モナコでカップ麺のコマーシャルを
作ったりもしていました。
武田鉄矢を起用して。
エジプトのピラミッドの前で取ったりしてましたね。
まるちゃんです。
「カップ麺のコマーシャルを海外ロケでわざわざ取るんだ???」
私がびっくりしてしまいました。
でも、私が配属になったのは、当時華やかに見えたCM部ではなく
マーケティングコミュニケーション部でした。
マーケティングといっても本来のマーケティングというよりは、
何でも屋です。
DMやポスター、
カタログなどのグラフィックも制作すれば
印刷もする。
看板も作れば、
店舗の改築もする。
ノベルティや記念品も作るし、
スーパーの店頭イベントも企画して、自分でやる。
ロゴ入りコーヒーカップや、
駅張りポスターの媒体もとるし、
のぼりやタペストリーを作るかと思えば、
ホテルでショーや
プレスカンファレンスを企画運営する。
ラジオCMを作るかと思えば
ナレータの弁当を買いに走る。
チューリップの花びらで銀座に絵をつくったり、
モーターショーのブースを作り
コンパニオンの部屋を手配する。
見積もりを作り、
クライアントに持っていき、
プレゼンをし、
飛び込み営業をして、
請求書を手書きで何百枚も書く。
何でも屋です。
広告代理店なんていうと
派手な商売と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
一握りのディレクターさんやトップデザイナーやコピーライターの話です。
下っ端には関係ありません。
実はとても地味な泥臭い仕事です。
タレントではありませんから。
もちろん体育会系ですので、
上司に怒られたり、
クライアントに怒鳴られりしながら
営業として日夜働きました。
でも仲間がいました。
先輩やクライアントやフリーのデザイナーさん、
プランナーさんの助けをかりたりしながら、鍛えられました。
苦しみながらも楽しさもあり試行錯誤の毎日でしたね。
金曜の夕方5時頃になると
必ずといっていいほど電話がかかってきます。
クライアントさんです。
「あ、○○だけど、例のデザイン、月曜でいいから、
持ってきてくれる。」
あの当時の広告代理店用語に訳すと、
「週末仕事して作れ」
という命令です。
この電話1本で、週末がなくなり、
デザイナーや関係する下請けさんに「帰らないように」と
電話をかけて、いやーな顔をされて板ばさみ状態。
辛い事もたくさんありました。
プレゼンをしてくれと依頼され、
急いで作ってもって行く。
暫くすると電話がかかってきて
「担当者レベルではOKだけど・・・」
広告代理店用語で
「全く駄目。」という事です。
若いとき、何でもやって身体で覚えた
この頃の営業やプランニングの経験が
私のベースになっているかもしれません。
仲間と働いた良い思い出でも
たくさんあります。
広告やプランニング、学ぶ事は好きでしたね。
今でも好きですけど。
働きながら平日の夜と週末を利用して
デジタルハリウッド(後にデジハリと名称変更)という
マルチメディアスクールにも通ったりもしました。
ご存知の方も多いのではないのでしょうか?
当時は秋葉原に小さな教室がありました。
1996年頃でしょうか。
インターネットも皆知らないような時代でしたが
この時のデジタルとの出会いは大きかったと思います。
はじめてフォトショップを見たときは驚きましたね。
この頃は、デジタル制作の
理論と実務の制作に没頭したのを覚えています。
広告会社での仕事も覚えた頃
新しい事にチャレンジしたくなりました。
8年勤めた広告会社でひと通りのノウハウを蓄積し、
新しいことを求めて退社した後は、アメリカにわたました。
アメリカではクリスチャンで奉仕精神のある方の
ご好意で格安でホームステイできました。
1年間語学の勉強をし、
人々の感性の違いや文化の違いを
肌を持って感じることができたのは財産です。
楽天的な南米の人たちや、
踊りが大好きスペイン人
髭だけで見るとおじさんのようだけど若いトルコ人
怒ると怖い、でも仲良くなると、とてもやさしい韓国人。
世界にはいろんな人がいるなあと実感。
広告会社時代8年で
やっと貯めたお金もそこをつき、
帰国して就職活動開始。
そこで出会ったのが今の会社です。
マーケティング経験と
覚えた英語を武器に
外資系の大手通販会社の
日本進出を実行する為に
マーケティングマネージャーとして働きはじめました。
この会社と出会えたのは
運が良かったと思います。
この時期にダイレクトマーケティング、
データベースマーケティングのノウハウを実践し
トライアル&エラーを重ねながら知見を蓄えることができたのは
私にとって大きな収穫です。
無事に会社を軌道にのせる事ができました。
0から今は数十億の売上げにまで成長しました。
そして現在は、この世界規模でビジネスを展開する
外資系大手通販会社の日本法人の執行取締役として、
セールス&マーケティング戦略の立案・実施行っています。
たぶんこの業界の通販では日本でNo1かと思います。
どのくらいの規模、スケールのビジネスかというと
・売上高、数十億円
・取扱商品点数、数十万点
・オーダー数、数千件/日
・Webオーダー比率 7割
・ページビュー 350万/月
・保有顧客データベース 数十万
具体的な数字は公開できませんのが、
スケール感はイメージできるかと思います。
私は広告が好きです。
マーケティングが好きです。
人に喜んでもらえるのが好きです。
人があっと驚いてくれるようなものを作りたいです。
へえーと思うような
記憶に残る何かを作りたいです。
そろそろ次のステップかな
と思っています。
将来に向かいたいと思います。
好奇心が動き出しました。
チャレンジ魂が疼きだしました。
もっと学びたくなりました。
どうしたら?
今までの自分の強みをもっと活かそう、
マーケティングをもっと極めよう。
ダイレクトマーケティング最大限にをもっと極めよう。
そんな訳で、現在の某通販会社の業務と並行して
個人レベルで展開するネットビジネスを数年前からはじめました。
もちろんどちらも本業です。
もちろんどちらも本気でやっています。
多くのネットビジネスは、
”稼げる”という事以上に”学べる”価値があります。
楽しみながら、学べ、そして結果として稼ぐ事が出来ます。
成功している情報・ノウハウや
そのアイデアを吸収、実践、加工して、
自分らしさができる。
そして何より夢がある。
情報のシェアで人生を豊かに
互いに学んで大きくなる
探していた情報に出会えた時の販売者と購入者との
WinWinWinの関係。
感謝されるダイレクトマーケティング
時間や場所に拘束されずに
自分のやりたいことで人に感謝されながら生きていきたいと思います。
ネットの力とダイレクトマーケティングを最大限に活用して
成功の上昇スパイラルを作ろうと思います。
家族と自分の幸せのために。

ネットやネットの外で出会ったみんなと
学びの雪だるまを
ごろごろ回して
大きくしたいと思います。
スタートしなくてはなにも起こりません。
10失敗して1つ成功すればいい。
そう虎の穴に入らなければ、
成功は得られません。
やるぞー!!
と意気込みを出したところで終わります。
取り留めのない
紹介になりました。
皆さんとの出会いを大切にしたいと思います。
末永く宜しくお願いします。
飯田耕平
